ピースツアー
インターネットを通じて、世界中どこからでも、姫路の町が歩んできた歴史をたどりながら、日本の平和への願いに触れることができるツアーです。
過去から受け継がれた願いを、未来へつなぐための旅へようこそ。
ピースツアーでは、姫路の町に残る歴史や平和への想いを巡ります。
ツアーの物語を事前に知りたい方、ご自身のペースで楽しみたい方など、すべての方に向けた無料のストーリーガイドです。
この地図は、風羽李サイクリングツアーが実際に走行するエリアを示しています。
左下の緑色のエリアが、ピースツアーのエリアです。
「TEGARA」と記された場所には、山の名称であり周辺地域の地名でもある「手柄」を表したシティモニュメントがあります。フォトスポットとしてもお楽しみいただけます。

手柄山の面白さを教えてしんぜよう。

大手前通り―Map No. 1

どうぞこの素晴らしい眺めをご覧ください。 燦然と輝く姫路城と、まっすぐにお城に続く広大な大手前通り。
大手前通りは、戦後間もなく、石見元秀(1900年~1976年)元姫路市長によって作られました。ダムや鉄道建設を専門とする事業を営んでいた石見氏は、市長就任前の行政経験が全くありませんでした。しかし、瓦礫と化した姫路の町を見て、日本の復興に心血を注ぐことを決意されたのです。
道路幅は50メートルもあるため、「50メートル通り」とも呼ばれています。この広い通りのおかげで、姫路市は日本でいち早く復興を遂げました。20年に渡る市長在任中、昭和時代の姫路城の大規模修復、書写山ロープウェイの建設、姫路大博覧会の開催など、数々の偉業を成し遂げました。
姫路城と大手前通りの組み合わせは、まさに平和と復興の象徴であり、姫路の誇りとなっています。

戦国の世が終わり、白鷺が舞うような美しい姿となった姫路城。千姫が住まわれたこの城は、平和な世を見守る存在なのじゃ。
姫路に二度あった太平洋戦の空襲でも、焼失の難を逃れたのじゃ。奇跡の城とはこのことぞ。
手柄-その意味

手柄はとても珍しい名前です。手柄と呼ばれる場所または山は日本に一つだけです。
なぜこの地が手柄と名付けられたのかは、播磨国風土記に由来します。
同書には、近国の神が手で草を刈り、食べ物の敷物としたことから「手苅」と名付けたという説と、韓人が初めてこの地に来たとき、鎌を用いることを知らず、手で稲を刈ったことから「手苅村」と呼ばれるようになったという説が記されています。いずれの説も、繊維の強い草や稲を手で刈るという、容易ではない行為が語られています。手を傷つけることもあったかもしれません。それでも困難に立ち向かい、挑戦する姿が伝わってくるようです。
また、手柄山には江戸時代、手柄山氏重を筆頭とする、手柄山一派と呼ばれる有名な刀鍛冶がいました。
そして「手柄」とは、個人または集団として顕著な成果や名誉を達成することを意味します。

いざ、本日はひとつ、手柄を立て、笑顔溢れる一日といたそう。
手柄山にいる白鷺

姫路城は「白鷺城」という愛称で知られ、実際、この辺りでは白鷺がよく見られます。「白鷺」とは、白っぽい鷺全般を指す言葉です。ご覧ください! アオサギ、コサギ、チュウサギなど6種類の鳥が大きなコロニーを形成しています。5月から6月にかけては、雛を含めて1000羽にも達することもあります。姫路の人々は、鳴き声や糞に悩まされながらも、その成長を見守り、自然の生態系を守っています。川に近いため、繁殖には理想的な環境です。9月中旬になるとコロニーは姿を消し、鳥たちは巣立ちます。
姫路城の周辺でも、優雅に飛ぶ白鷺の姿を見ることができます。


賑やかな白鷺の鳴き声やその数に驚かれるであろう。さて、ここから手柄山へ登ろうぞ。
太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔-Map No.20

提供:姫路市
この塔は、昭和31年、第二次世界大戦中の空襲で亡くなった全国各地の民間人を追悼するために、全国民からの寄付によって建てられた慰霊塔です。前面には日本地図に113戦災都市(東京都、99市、13町)の位置が、側柱には戦災都市ごとの被爆年月日、死没者数、罹災人口、そして歴代復興担当市長名が刻まれています。
背面には、「身に何等の防備なくして無慙なる空爆のなかに敢えなく非業の死を遂げた幾多の無辜の市民」の魂を慰めるために建立されたこと、そして「この慰霊塔に詣ずる者の声は世界の隅々へまで平和の祈りの声として響き伝わること」を願って建立されたことが刻まれています。これは、石見元秀市長が自ら筆を執った「人類永遠の平和」への願いを記した言葉です。
空襲で命を落とすことは、なんという恐ろしく悲劇的なことでしょう。
その運命を辿った51万人の尊い魂のために、心から祈りを捧げます。
慰霊塔は、地面に突き刺さった剣の形をしており、二度と戦争はしないという不戦の誓いを象徴しています。

この犠牲者の中には、原爆によって亡くなられた方や、空襲以外の理由で命を落とされた方も含まれておるのだ。
また、ここは私が姫路で企画した女性だけで走る100kmサイクリングイベントのゴールでもありました。
私は、自分にできることは何かを探していました。仕事でも趣味でも、自分が夢中になれることは何なのだろうと考え続けていました。そして、きっと自転車がその答えへ導いてくれる――その事に気付いて、さまざまなライドを重ねてきたのです。その中で、ついに私が探し求めていた答えは――戦争の悲劇を防ぐこと、平和のために何かをすること――だと気づきました。
そして、ふと、このイベントの事を思い出したのです。
当時、私は「女性だけで走る、できれば華やかなイベントのゴールが慰霊塔で本当に良いのだろうか」と少し迷いました。しかし、およそ100kmという距離の地点であったこと、見晴らしの良い展望台があること、そして何より、私自身が姫路に慰霊塔があることをそれまで知らなかったことから、多くの人に伝えたいと思い、この場所をゴールに選びました。
そのイベントは、私が初めて企画したもので、今でも特別な思い出として心に残っています。そして振り返れば、そのゴール地点との出会いが、私自身が平和への道を歩み始める一つの出発点になったのかもしれません。
姫路市平和資料館-Map No.19

姫路市平和資料館は、第二次世界大戦がもたらした悲劇と苦しみを後世に伝え、平和の尊さを次世代に伝えるための施設です。
1996年に開館したこの博物館は、第二次世界大戦中に姫路を襲った二度の空襲の痕跡を展示するほか、日本各地の都市が被災した様子を紹介し、原爆の影響を最初に発見した姫路出身の医師、都築正男博士に関する情報も展示しています。
館内には、当時の住宅や、空襲から身を守るために使われた防空壕が復元されています。
多くの日本人向け平和教育施設は、時代とともに過度に衝撃的な展示を控えるようになっていますが、姫路市平和資料館は、今もなお、播磨の人々の絶望的な叫び声や空襲の恐怖を体感できる、日本でも数少ない平和教育施設です。
空襲を映像、音響、振動、ジオラマを用いて再現し、あの恐ろしい空襲体験を追体験できます。
二度の空襲があったにもかかわらず、姫路城は守られ、人々の努力と神の意志さえ感じます。姫路が、いかに平和と深く結びついているかを、ぜひ感じ取ってください。

提供:姫路市
都築正男博士と原爆症
都築正男博士(1892年〜1961年)は姫路市に生まれました。
都築博士は東京帝国大学(現東京大学)の教授であり、放射線の人間の体への影響に関する第一人者でした。日本の先駆的な医師であり海軍軍医でもありました。1945年の広島と長崎への原爆投下後、被爆者の初期の調査と治療において重要な役割を果たしました。博士は、最初の被爆患者に現れた症状が急性放射線障害であることをいち早く診断し、そのカルテに「原子爆弾症」と記しました。しかし、当時は治療法が確立されておらず、医師たちは目の前で苦しむ人々を救うため、不眠不休で手探りで治療に取り組みました。
都築博士は、GHQによる原爆研究の発表制限に対し、「今この瞬間にも多くの被爆者が次々と死んでいる。原爆症はまだ解明されておらず、治療法すらない。たとえ命令でも研究発表の禁止は人道上許しがたい」と堂々たる英語で訴えました。私は、博士が流暢な英語で、信念を持って訴える力を持っていたことが、閉鎖的な状況を変えたのではないかと思いました。そしてGHQによる要請で、博士は医師たちの調査報告を英訳し、提出しました。
その後、都築博士は日米両国の科学者と緊密に連携し、原爆放射線の医学的影響に関する共同研究に貢献しました。「原爆症研究の父」と呼ばれ、彼の科学的厳密さ、被爆者への深い思いやり、そして前例のない医学的課題に立ち向かうリーダーシップは、今もなお人々の記憶に刻まれています。
1958年、都築博士が姫路市初の名誉市民に選ばれたことは、単なる名誉以上の意味を持ちました。それは故郷からの深い励ましと心からの敬意の表明でした。姫路と平和との深いつながりでを象徴する、世界の原爆障害研究の道を切り開いたリーダーについてお伝えできることを嬉しく思います。
二ノ宮金次郎
ではここで、私の平和観を伝えるために、日本で誰もが知っている、二宮金次郎(1787年~1856年)についてお話しましょう。薪の束を背負って勉強する彼の銅像は、全国各地の学校に建てられ、子供たちの模範となりました。私たちは、彼のように努力を惜しまず学び続けることの大切さを教えられてきたのです。私は、学ぶということは、与えられた環境の中で、未来を切り開こうとする、人間の大きな力なのだと思いました。

注:この備前焼で作られた二宮金次郎像は手柄山平和公園にはありません。
しかし、彼の教えには、もっと深い意味がありました。彼の考えに対する反対や妨害に直面しながらも、多くの人々を助けるために尽力した姿を「日本のイエス・キリスト」ではないかと考える人がたくさんいました。
金次郎は、自らの進むべき道を求め、成田山新勝寺で21日間の断食修行を行いました。その中で深く自分自身と向き合い、それまで見落としていた大切なことに気づいたと言われています。そこで得た気づきが「万物を一つの円として見る」という一円観です。つまり、一見悪いように見えるものも、円の片側に過ぎず、反対側にはその反対が存在するということです。
円の二つの半円は正反対に見えても、万物は一つの円の中で共存しています。彼は、常に物事がより良い方に繋がる円の反対側を見ることで、心の平安を見出したのです。
このことから、悲惨な戦争が起こった場合、円の反対側には何があるのか、という疑問が湧きました。
では、第二次世界大戦後に、どんなことがあったのかを、私の視点で振り返ってみたいと思います。
まず、核兵器の恐ろしさを世界中に知らしめました。どれほど多くの人々が、その未知の兵器の犠牲となったことでしょう。都築正男博士は、原子爆弾という未知の兵器が人体に及ぼす影響をいち早く明らかにし、その事実を後世に伝える重要な役割を果たしました。しかし核の恐ろしさを知りながら、戦争抑止のために核は拡散しました。では本当に再びこの兵器を使う事ができるのでしょうか。たとえ戦争に勝ったとしても、その代償として国の尊厳を大きく損なうことにならないでしょうか。
次に、様々な技術革新がありました。これらの技術、例えばこのスマホや翻訳アプリのおかげで、私は今こうして海外からのお客様ともコミュニケーションを取ることができます。AIの進化は、人と人、そして国と国との相互理解をさらに深めてくれると信じています。
さらに、子どもの頃に住んでいた九州・久留米では、戦後、米軍寄生虫学者のハンター博士と協力し、サントブライトという殺貝剤を散布して、日本住血吸虫症の中間宿主であった貝の駆除が進められました。長年にわたり多くの人々の命を奪ってきたこの病気は、こうした取り組みによって根絶へと向かいました。そして、久留米の人々がその功績を人類愛の発露として讃え、ハンター博士の胸像を建立して感謝の意を表していることに、私は深く心を打たれました。
戦争という深い闇の中にも、人々が生み出してきた多くの光があることを知った私は、アメリカ人の英語に先生から教わった「過去を記憶しない者は、それを繰り返す運命にある。」という言葉をかみしめていました。
この言葉は、戦争の悲惨さだけを忘れてはならないという意味ではないと、私は思います。
人々がより良い未来を願って積み重ねてきた努力も忘れてはなりません。
その歩みが、私たちを平和への道へ導いてきたのではないでしょうか。
私は、日本に現れた崇高な魂を持つ人達が、私たちに平和への道を示してくれていると信じています。
金次郎の思想は、あらゆるものを一つの円(すなわち一円環)の一部として捉えることとしました。
そこでは、あらゆる対立するものが一つとなって、一つの円を作ります。
金次郎はこの円を、自身の悩みを解消し、心を落ち着かせ、思考を整理し、自らの考えを他の人に説明することに好んで使用しました 自分に反対する者、自分のやり方を妨害する者、あるいは悪者とみなす者を、決して敵や排除者として扱いませんでした。 むしろ、彼らを円環の中に迎え入れ、共に考え、彼らの視点から物事を理解しようと努めたのです。

提供:姫路市

ここは手柄山平和公園のサンク・ガーデンでござる。
せっかくお越しくださったのだ。静寂に包まれた花壇と豊かな緑を、心ゆくまでご堪能くだされ。
かつて刀を鍛えておった場所を探してみるのも一興でござるぞ。
爽やかな風が吹き抜ける、心地よい場所なのだ。
石見元秀像-Map No.24
「もはや戦後ではない」
1956年、この言葉が広まった頃、姫路市手柄山では、民間からの寄付によって太平洋戦全国空爆死没者慰霊塔が建立されました。その3年後の1959年、姫路市長の石見元秀は、自らが設立した全国戦災都市連盟の解散を発表し、戦後復興の終結を宣言しました。
そして、急速な経済成長を遂げた日本は、1964年にアジアで初めて東京オリンピックを開催しました。姫路でも、1966年、昭和時代の姫路城の修復完了を記念して、手柄山周辺で姫路大博覧会が開催されました。ディズニーランドをイメージして建設され、象徴的なモノレールも設置されました。この博覧会は、わずか2ヶ月で約150万人が訪れ、大盛況となりました。
しかし残念な事に、モノレールの赤字経営が問題となり、市長は次の選挙を落選しました。彼の市政は20年に渡りましたが、圧倒的な速さで現代の姫路の礎を築き上げたのです。
もし彼が初代市長でなかったら、姫路は今日のような姿にはなっていなかったでしょう。

「今一期、市長としての任期があれば、回天の大理想を実現しえた」
これは、戦後20年間姫路市長を務めた石見元秀氏が、新聞社の取材で語った言葉です。
「回天」とは「天の運行を変える」、つまり形勢を逆転させるほどの大事業を意味する言葉です。第二次世界大戦末期に使用された人間魚雷「回天」も、この言葉から名付けられました。
市長のいう「回天の大理想」とは何を指すのでしょう。
私は、石見市長が、自らの意思だけでは選べない時代の中で、戦場に向かわざるを得なかった若者たちの体験した悲劇の反対側を見つめようとしていたのではないかと思いました。
戦争の犠牲になった人々、そして戦後の平和構築に尽力した人々が、未来へつないでくれたもの。そのお陰で私たちがこれほどまでに幸せな生活を送ることができるのだと、改めて気づかされ、ハッとしました。
おそらく、このように心から感謝があふれる瞬間にこそ、私たちは何のために生きているのかを知ることができるのでしょう。
驚いたことに、石見元秀・姫路市長が設立した全国戦災都市連盟の第1回総会で、満場一致でマッカーサー最高司令官への感謝決議が行われたのです。
これほどまでに悲劇的な戦後に、何に対して感謝していたのでしょうか?
私はその背景には、アメリカにより日本の皇室制度が守られたこと、戦災都市に競馬や宝くじといった市による自由な経済活動が許可されたこと、そして、女性の参政権が認められ、日本が真の民主主義国家へと発展していったことなどではないかと思います。
この歴史は、私たちの真の願いが叶った時にそれを認識し、感謝の気持ちを表すことの大切さを教えてくれます。
戦争における勝敗だけが、真の勝利ではありません。人々がどのような思いで生き、どのような未来を願っていたのか。そして、その願いが平和な形で実現したとき、初めて本当の意味で勝利と言えるのではないでしょうか。

地図番号二十一番の手柄山交流ステーションには、姫路大博覧会の精巧なジオラマや、日本ロッキード社製の現存するモノレールが展示されておる。世界で唯一現存する車両も見応え十分じゃ。
製造元の会社が後に解散し、部品の調達が難しくなったことも、わずか八年で運行を終えた一因でござる。無念……。
姫路市立水族館も併設されておるゆえ、時があれば両方訪ねてみるのもおすすめでござるぞ。
手柄山に1977年、ジェットコースターや観覧車などを備えた市営遊園地「ひめじ手柄山遊園」を開設・整備したのは、次の吉田豊信市長の時代でした。
石見市長が描いた「回天」の大理想は、市長が代わっても途切れることなく受け継がれ、市民に親しまれ、子どもたちの笑顔あふれる場へと姿を変えました。こうして歴史を振り返ると、かつて何気なく遊んでいた風景が、まるで違って見えてきます。あの日の笑顔の背景には、多くの人々の願いと苦難の道があったことに気づくからです。
そうそう、この場所には回転展望台、観覧車、ジェットコースター、周る(流れる)プールなど、「回るもの」がたくさんありました。その光景を思い浮かべると、「回天」という名にも、どこか不思議な縁を感じてしまいます。


提供 姫路市
今、私が心から願っていることがあります。それは、朝鮮民主主義人民共和国によって拉致された方々の帰還です。
そして、日本がこの問題に対し、戦争に訴えることなく、対話によって解決する道を歩み続けていることを、世界に伝えたいと思います。
もし今、石見元秀市長がこの時代をご覧になっていたなら、拉致被害者の方々の帰還を心から願われたのではないか――そんな思いを巡らせています。私には、「回天」という言葉に込められた願いと、海を越えて祖国を離れることを強いられた拉致被害者の方々の姿が、どこか心の中で重なって感じられたのです。
だからこそ私は、この問題の解決を姫路から発信し、そして日本中の願いとして、一日も早く叶えられるようにと願っています。

この願いを形にするために、そなたに託したいことがござる。
展望台-Map No.23

折り鶴ソング「夢の翼 Wings of Dreams」をお聞きください。
展望台からは、白く輝く姫路城と、その眼下に広がる町並みを一望できます。
城下を走る列車の姿は、バージニア・リー・バートンの絵本『ちいさなお家』を彷彿とさせます。
小さな家が移り変わる時代を見守ったように、姫路城もまた、何世紀にもわたり、この町と人々の歩みを見守り続けてきました。
このピースツアーでは、人々の幸せと平和を願った千姫にちなんで、折り紙に願いを書いて、折り鶴を折ります。

一つは己の願いを込め、もう一つは平和への願いを込め、二羽折ってほしいのじゃ。
小さな一羽かもしれぬ。
しかし願いを込めて折ったその鶴は、そなたの想いを形にしたものとなる。
平和への願いを心の中に見つけたそなたは、もう平和への一歩を踏み出しておる。
まことに大手柄である。あっぱれじゃ。
この折り鶴ワークは、人生の歩みになぞらえたものです。
一枚の紙が折り重なり、少しずつ鶴の姿へ変わっていくように、人生もまた、さまざまな経験を重ねながら成長し、振り返った時に初めて、その道の意味が見えてくるのかもしれません。
かつて実業家だった石見元秀氏も、まさか姫路市長になるとは思っていなかったでしょう。
放射線の人体への影響を研究していた都築正男博士も、まさかカルテに「原爆症」と記す日が来るとは思っていなかったでしょう。
そして私自身も、まさか姫路から平和を伝えるサイクリングツアーのガイドになるとは思ってもいませんでした。
Appleを創業したスティーブ・ジョブズ氏は、「人生は振り返って初めて、点と点がつながる」と語りました。私もまさに、そのことを実感しています。
人生とは、ひとりひとりに与えられた、かけがえのない物語。そこには、誰もが果たせる大切な事があるのではないでしょうか。

世界平和の鍵は、人と人との、そして国家間の感謝と理解にあります。
これは、私がこの旅を通してたどり着いた平和への鍵です。
平和への道は一つではありません。
このツアーが、なにかの気づきや行動に繋がれば、これほど嬉しいことはありません。
世界を変える力は、私たち一人ひとりの心と行動の中にあると信じています。

そなたの小さな気づきが、いつか大きな平和への力になるのじゃな。





拙者、次は姫路城にてお待ち申し上げる。
謝辞
まず最初に、英語で書いた姫路の歴史と平和に関する私のツアーを、より深く、より多くの人に届くものへと磨き上げるお手伝いをしてくださった、アメリカ人のタラ・ポスティリオーネさんに、心より感謝申し上げます。
私は彼女との交換日記を通して、このツアーを企画することができました。さらに彼女の温かい声は、耳を傾けてくださるすべての方々に平和のメッセージを届けてくれることでしょう。また、日本滞在中にこの平和ツアーに参加してくださった海外からの訪問者の皆様からいただいた率直なご意見は、この活動を続けていく大きな力となりました。
英語が思うように話せなかったからといって諦めずに続けてよかったと、心から思っています。
世界中の皆様からいただいた貴重なお時間とご支援に、心より感謝申し上げます。
私自身も、この旅を通して得た様々な気づきをこれからも大切にしながら、平和への一歩を歩み続けていきたいと思います。
最後に、このピースツアーの舞台となり、幾多の困難を乗り越えて平和と復興の道を歩んできた姫路市に、心からの敬意と感謝を申し上げます。
風羽李 奥野理恵
